akinaga: 2011年7月アーカイブ

【シンガポールで自決した父の兄、伯父のお墓を捜していました・・・】


部下の方達が、シンガポールを去るときに、伯父のお墓を作ってくださったとのこと。

すぐに父は、部下の1人の方とシンガポールに飛びました。

覚えているのは、ちょっと小さめの丸い石に、名前を刻んで、埋葬した場所に置いてきた、

ということだけでした。

父も、部下の方も必死で、その丸い石を探しました。

でも、どうしても、どうしても見つけることができずに、帰国しました。

やはり記憶違いだったのか・・・、それとも、処分されてしまったのか・・・。

でも、部下の方達と伯父の話をして、父も安心した様子で、実家のお墓に報告をしました。

 

伯父の33回忌。

これをもって、亡くなった方のこの世での法要は、一応終わります。

本当に「さようなら」を言わなくてはなりません。

 

しかし、その年、法要の直前。

1人の部下だった方が、たまたまシンガポールの日本人墓地を訪れていて、伯父のお墓を

見つけたと、現地から電話が入りました。

父も、びっくりして、すぐにシンガポールに飛びました。

 

戻ってきて、写真を見て、びっくり!!

大きな墓石がそこにはありました。

伯父の名前も刻まれていました。

父も皆さんも、置いてきた小さい石を探して、下ばかり見ていたのです。

実は、どなたかが・・・でも部下の方達は知らない、と言っていました・・・・墓石を作って

くださって、伯父の名前を刻んでくださいました。

長い間、お墓を探してくれた部下の方達、そして父に、伯父が最後のお別れに、お墓を見せて

くれたのだと思いました。

 

そして、18年前、父が亡くなりました。

私達は、その報告をしに、シンガポールに行きました。

日本人墓地の管理室にいらっしゃった現地の方にご挨拶をして、お墓に向かいました。

本当に写真の通りのお墓がありました。

伯父の名前も刻まれていました。

 

(伯父さん、やっと、やっと会えましたね。それから、ここに眠っていることを知らなくて、

ごめんなさい。そう、父が亡くなりました。どうぞ、父をよろしくお願い致します。

それから、おじいちゃま、おばあちゃま、そして、伯母様にはお会いになれましたか?

長い間お疲れ様でした。また、必ず来ますね!)

と心の中で言いました。

涙が溢れ出てしまいました。


読んでいただいてありがとうございました。

私の父は、もう、18年前に他界いたしました。

その父の兄、伯父ですが、戦争終結直後、ピストルで自決しました。

伯父は、シンガポールで終戦を迎え、隊の部下の方達が、捕虜になることを避けるため、

責任を取り、自ら命を絶ったのでした。

 

ですから、私は写真でしか伯父の顔を見たことがありません。

父に顔がとても似ていますが、写真の中の伯父は、軍服姿で、とっても立派です。

隣には、出兵する前に結婚したお嫁さん・伯母が座っています。

そして、伯母も、広島の原爆ドームの近くに住んでいたため、原爆の投下後、数日して、

亡くなりました。

ただ、伯母には、シンガポールでの伯父の死は知らされていませんでした。

 

母は、伯父にも伯母にも会ったことはありませんが、伯父に付いては、父や父の両親から

聞いていました。

「伯父様は、本当に立派な方だったそうなのよ。どうして兄弟なのにこうも違うのか・・

笑っちゃうけど。」

などと、いまだに言っています。

 

結局、伯父の訃報の知らせ1通が、唯一、伯父は確かにシンガポールにいたという証でした。

いよいよ、部下の方達が日本に戻ってきましたが、大混乱の状況下では、父はもとより、

父の両親もその方々に、会うことができませんでした。

 

その後、それこそ30年後ぐらいに、部下の1人と父が、偶然に会うことになりました。

伯父の話を、父は本当に興味深そうに、そして、嬉しそうに聞いていました。

 

部下の方達は、当時、日本に帰れるのなら、どんなに小さい物でも良い、日本にいる伯父の

家族に、遺品を届けたい・・と思ってくださったのです。

そして、ありとあらゆる物を小さく刻んで、ご自分達の髪の毛の中、下着の中など、隠せる物を

隠せるところに、隠せるだけ、持ち出してくださいました。

ところが、一時的に捕虜になったとき、洋服を全て脱がされて、髪の毛も刈られてしまい、

伯父の遺品は全て無くなりました。


<続く>    毎年7・8月は、平和を願わずにはいられません。

【バトー・ムッシューに乗る事に決めました。男性ガイドさんに連れられて、

船に乗り込みました。】


船の中で、夜のパリの街を見ながらお食事をする・・・1度してみたかったので、

とっても嬉しかったです。

お料理も、前菜・メイン・チーズ・デザート・コーヒーと進んで行きました。

お食事中は、生のバンドの音楽を聴き、歌手の方が歌っていました。


昼の景色とはまた違う、ライトアップされたパリの景色がそこにはありました。

やっぱり、パリは美しいです!

全てが芸術作品のようでした。


そして、船が到着する間際、サービスをしてくれた男性女性が、音楽にのって、

船の中を歩き、1人1人、司会者の方が紹介をしていました。

まるで、舞台を観ているようでした。

みんな、格好良かったぁ。

 

そして、船から降りて、再び、あの大型バスに乗りました。

お客さんは私達だけでしたから、ホテルまで送ってくださると言うことでした。

バスの中で、ガイドさんは、実は、その昔、日本で歌手をしていたと、打ち明けてくれました。

「ルミ子、知ってる?ルミ子は私の後輩よ。あまりパッとしなかったしぃ、日本人の世界が

嫌になってパリに渡って、ウン十年たっちゃったぁ。」

と色々芸能界のお話をしてくれました。

やっぱり、ちょっと雰囲気が普通の方とは違うと思いましたので、納得でした。

 

細い道を大型バスで走り・・ホテルの前に到着しました。

道行く人達が、「何事?」って思って、バスを見ていました・・・ちょっと恥ずかしかったです。

 

そして、ガイドさんは、私達に、

「また、フランスにいらしてね。今日はありがとうございましたぁ。」

とお礼を言ってくださいました。

それから、娘に、

「あ、それから!お母さんとは、お写真を撮ったほうが良いと思うわ。さようならぁ。」

と言って、バスに戻り、夜のパリの街に消えて行きました。

 

娘は、クスっと笑っていました。


読んでいただいてありがとうございました。

 

パリで、バットー・ムッシューに乗った時のことを書きます。

 

オペラにある、旅行代理店で申し込みました。

夕方、行ってみると旅行代理店の前には、すでに大型バスが停車していました。

そのバスで、私達を船の乗り場に連れて行ってくれるとのことでした。

 

バスに乗り込んで待っていると、日本人の男性のガイドさんがやってきました。

「こんばんはぁ。出発しまぁ~す。」

え?そう、お客さんは、私と娘だけでした。

こんな大型バスに乗って・・・貸切状態・・・ちょっとびっくりでした。

 

「今日は、もうちょっと小型のバスを用意できれば良かったんですけれどぉ。

これから、ちょっとパリ市内を車窓観光して、船の乗り場に行きますね。」

とのことでした。

 

そのガイドさんは、大きなグッチのバックを持って、とってもお洒落な方でした。

そう、喋り方、雰囲気でわかりました・・・おかまの方でした。

私は、おかまの方が大好きです。

とっても、綺麗で、お洒落で、品があるからです。

 

バトー・ムッシューに乗り込んで、メニューを決めてから、ガイドさんは

「2人で、お写真を撮りましょうか?」

と言ってくれましたが、年頃の娘は、嫌がる感じでしたので、

「大丈夫ですから・・・照れ屋ですし、難しい年頃ですから・・・。」

とお断りをしました。

それからガイドさんは、船を降りました。

 

さて、これから船が出発します。

どんな感じなのでしょうか・・・・バトー・ムッシューとは・・・。

                                           【続く】

【父は、水泳一筋の人生。私が小さいころ連れて行かれたプールでいきなり
投げ込まれ・・・溺れて死にそうでした・・・。】

父は、まず、姉を水泳選手にしたかったのですが、「センスがない」と言うことで、

諦めました。

 

その次に、父は、私を水泳選手にしたかったのですが、生まれたときから1年間も

股関節脱臼を患った私の足は、やっぱりキックが弱い、ということで、断念していました。

私は、ホッとしました。

 

だって・・・練習がスパルタでした、あのころ。

プールで泳いでいる学生に声が届かないときは、プールサイドから、

長~~~~い棒で頭や体を叩くんですよ。

あんなスパルタ教育を受けるのは、嫌でした。

 

家族に水泳選手がいなくて、申し訳なかったですが、その分、大学の学生の方達に

夢を託して、熱心に応援・指導をしていました。

 

父は、真夏に亡くなりました。

大学の水泳大会が目白押しの最中でした。

父の葬儀には、その大会の合間をぬって、昔の学生さん達、現役の学生選手が

駆けつけくださいました。

昔の学生さん達は、父を「おやじさん!」と呼んでいました。

 

昔の学生達も、もう、おじいさんです。

面影はありますが、みんな、おじいさんになりました。

 

時の流れは早いもの。

だからこそ、人と人のつながりを大事にして、真剣に毎日を生きて行きたい・・・。

毎年、父の命日が近づくと、私は、自分を戒めるのです。


読んでいただいてありがとうございました。


                                              【完】

私の父は、学生のころからずっと水泳畑一筋。

 

そして、家には毎日のように、大学の水泳部の学生がご飯を食べに来ていました。

地方の高校でスカウトをした学生が、東京で下宿生活をしていたので、ロクなものを

食べていないだろうからと・・・家は、彼らにとっては、『食堂』でした。

電車がなくなって帰れない学生達は、みんな、家に泊まって行きました。

 

家には、大きいお釜がありました。

大きい大きいおなべもありました。

お茶碗も、お箸も、たくさん!それはそれは、たくさんありました。

 

夏には、たくさんの水泳大会がありますので、毎日のように学生と共に父は

大会に行っていました。

みんな、真っ黒でした。

とにかく、黒いと言うのでは足りない・・・ドス黒い。

 

小さい時に、一度、学生達の練習風景を見る父に連れられて、プールに

行ったことがあります。

私は、まだ泳げなかったのに、水着も持たされて・・・。

 

水着を来て、プールサイドに立った私を見て、父は、いきなり、私を持ち上げ、

プールに投げ込んだのです。

心臓が止まるかと思いました。

おぼれる私・・・、アップアップして・・・。

大学の競泳用プールでしたので、深くて深くて、足なんて届きませんでした。

 

すると私の限界を感じた父は、学生に、私を救い上げるようにと、命令をしました。

(ぐ・・ぐ・・軍隊みたい!)

 

一斉に学生達が、プールに飛び込み、私を助け出してくれました。

そのときの学生達・・・神様でした。

死にそうでした!殺される!!

「でも、泳げるようになるには、これが一番。体で覚えるのが一番!」

と父。

(でも、泳げるようになる前に、私、死んじゃう!)

と思った私は、スイミングスクールに入りました。

あ~ホッとした。

                                             ≪続き≫


【タヒチアンダンサーに同行し、1週間。いよいよ帰国です。】

 

貴重な経験をさせてもらって、あっという間に経ってしまいました。

 

ホテルに迎えに行くと、ロビーには、すでにみんなが集まっていました。

大量の段ボール箱が積まれていました。

(は~、本当にみんなタヒチに帰ってしまうのね・・・。)

少し寂しい気持ちになりました。

 

みんなで、朝のコーヒーを飲んで、いよいよ成田空港へ出発しました。

バスの中で、みんなでタヒチの歌を大合唱してくれました。

みんな、タヒチでは有名なグループですので、今回のように日本に又来ることは

ないかもしれないと言うことを、団長が言っていました。

 

成田空港に到着し、荷物をチェックインしました。

私達は、最後のショッピングをしました。

私は、みんなから離れて、15本の日本酒を買いました。

タヒチアンは、とってもお酒が好きで、強いので、これが一番良いプレゼントだと

思ったからです。

 

そして、セキュリティーチェックのところで、15人全員に囲まれた私は、みんなから、

黒真珠のネックレス、ブレスレット、イヤリング、貝殻のレイ、そして、ココナッツの

殻で作ったギターをもらいました。

一気に涙が溢れ出し・・・本当に、一緒にタヒチに行ってしまいたくなりました。

純粋で温かいタヒチアン達の心に触れて、そして、全員の顔を忘れまいと、みんなの

顔を見ました。

女の子達も、みんな泣いていました・・・そして、舞台に立つことができなかった2人も、

ミュージシャンも・・・団長までが泣いていました。

 

そして、15本の日本酒を手渡しました。

「ああああああああ、日本酒大好きだだぁ~・・・一気に飛行機の中で飲んじゃう。」って。

2本ずつ買ってあげたら良かったかな・・・。

 

そして、みんな帰って行きました。

のように、静かな日常が戻りました。


次の日、団長から電話が入りました。

「日本が懐かしくなって、つい電話をしてしまった・・・。」

との事でした。


やっぱり太陽と緑の中で育った人々は、温かい・・・そして、日本人に

とても似ていると思いました。


読んでいただいてありがとうございました。


【タヒチアンダンスの舞台を終えてから、帰国の日まで動き続けるダンサー達。】

 

次の日からは、「ワークショップ」と言って、色々なダンススクールを回り、本物の

タヒチアンダンスを見せていく・・・・というスケジュールが始まりました。

多くのダンススクールを回るので、とても忙しいものとなりました。

私は、何か困ったときに登場するヘルパーとなり、レッスンをずっと見ていました。

何か困ったとき・・・って、ダンスだけは、絶対に無理ですからぁ。

 

ダンススクールの皆さんは、本物のダンサー達の踊りに見入っていました。

昨日の秋葉原・浅草などで見た彼らの素顔は、やっぱり全くありませんでした。

プロ集団。

 

あのタヒチで見たショー、そして、舞台のショーも敵でしたが、こんなに間近で見るダンスも、

驚くほど素敵でした。

 

ダンススクールを去るときに、スクールの先生にも・・・ご挨拶でしょうけれど・・・、

「ぜひ、akinagaさんも、習いに来てくださいね!」

と言われましたが・・・・「はい、是非ぃ~~。」とだけ、返事をしました。。

 

夜、ホテルに戻って、ダンサー達は、私に言ってきました、

「どうして、akinagaは、タヒチアンダンスを踊らないの?」って。

「見ているだけで幸せだから、大丈夫!」

と言いました。

 

無理矢理、レッスンを受けさせられました・・・骨盤が外れそうでした。

・・・絶対にできない・・・だから・・・・無理だって言ったでしょう!?

次の日は、極度の筋肉痛・・・・ほらね!

だから、嫌だといったのにぃ~。

【タイヒチアンダンスの舞台本番前日、みんなは、何か「前祝」とか言って、

飲みにいき、遅くまで遊んでしたそうです。

私は、リハーサルだけでクッタクタ・・・本番に備え、帰りました・・・。】


朝早くメイク室に入ると、タイヒチアンたちは、すでにお化粧を終え、衣装もつけて

プロの顔になっていました。

男性ダンサーは、4人が踊りの練習をして、残りの男性3人は、生演奏の準備を

していました。

 

団長は・・・そう、「舞台に立たせない」という厳しい罰則を与えた人・実は歌手を

中心に何か作業をしていました。

覗いてみると・・・・、

そう、タヒチから持ってきて、税関を通した、花。

この花で、冠を作っていました。

舞台直前に、こうしていつもお花の冠を作るそうです。

お花の匂いが部屋中に広がっていました。

(毎日、こんなお花の匂いの中で生活しているなんて・・・うらやましい。)


いよいよスタンバイです。

(全て上手くいきますように!)

客席は満席。

そして、みんなが舞台に出て行きました。


私は、舞台裏を走り回っていました。

舞台の袖で観る女性ダンサー5人の踊りにもびっくりしました・・・・エレガントで、素敵・・・。

そして、男性ダンサーの踊りも、あのタヒチで観た踊りよりも迫力がありました。

団長の声も・・・とても高音でうっとりしました。


大盛況のうちに幕が下がり、無事に舞台は終わりました。

緊張をしていましたから、疲れてはいませんでしたが・・・また、みんな・・・打ち上げに

いくとの事。

さすがに今日は行かないと・・・と思い出かけました。

タヒチアン達は、とってもお酒が強く、ワインを何本も開けました・・・。


そして、明日から、また別のお仕事に取り掛かります。


【タヒチアンダンサー15名のお世話をすることになりました。2人、秋葉原で迷子になって、

舞台に立たせないという団長の言い渡しがあり、「厳しい世界だ」と痛感。

無事に舞台の日までたどり着けるのでしょうか・・・・。】

 

リハーサルでは、あの、100円ショップのニコニコはなく、もう、タヒチアンダンサーの

プロの顔になっていました。

ただ、秋葉原で迷子になった2人のせいで、舞台構成を変更しなくてはならない・・・

とのことで、大変でした。

 

まず男性と女性ダンサー達の数が違ってしまったことから、曲目の変更をしました。

その曲目変更の関係で、照明も、舞台装置も変更になりました。

(2人は反省しているから、始めのショーをすればいいのに・・。)

 

ミュージシャン達の舞台入り、そして、座り位置の確認。

その後、団長の舞台入り・・・びっくりしました、歌手でした。

男性なのですが、と~~~~っても美しい高音、そして、タヒチの太陽の匂いが

してくる・・・そんな歌声・・・すばらしい。

 

そして、いよいよダンサー達の登場。

衣装をつけた彼女達は、本当にタヒチアン・・・そして、美しい姿でした。

舞台に登場し、踊って、退場し、また反対側に走って行って登場する。

その進路を安全にするために、ペンライトを持って、ダンサー達を誘導・・・・。

衣装の着替えのお手伝い、小道具の用意・・・、全て本番さながらの通し芸子を

しました。

 

終わったときには、クッタクタの私でした。

 

みんなは元気。

本番前日だというのに、みんなで飲みに行くとのこと・・・。

元気すぎる!


さすがに私は失礼させてもらいました。

 

ある日、知り合いの人から、

「タヒチアンダンサーが日本で公演をするので、手伝ってくれませか?」

と、言われました。

私は、浮き浮きしながらも・・・

「私、踊れないけれど、大丈夫?」

と聞いてしまいました。

すると、

「大丈夫。akinagaが舞台で踊るわけじゃないから。」

とのこと。

安心しました、良かった。

それなら安心して、真心込めてお世話をさせていただきます・・・でした。

 

ダンサー達が、成田から東京へ到着し、秋葉原で合流しました。

その日から1週間、タヒチの皆さんと行動を共にして、舞台に向けて準備をしました。

 

とにかく、秋葉原は、行かなければならないところ、No.1らしいです。

ある建物の前で、

「ここで再集合ね!」

と言ったものの・・・やっぱり、男性ダンサーが2人迷子になりました・・・。

 

その2人は、チームワークを乱す・・・ということで、団長は、その2人を舞台には

立たせないことに決定しました。

(厳しいぃ~~。)


散々電気街でお買い物をして、お昼ごはんは、浅草で、食べました。

 

私もいつも聞くことですが、

「日本の食べ物で、何が好きですか?」

タヒチの人達は、何が好きなのでしょうか・・・・マグロ・かつおをココナツミルクで

混ぜて、レモン汁で和えてしまう・・・でも、やっぱりお魚かしら・・・と思っていると、

YAKINI~~~~KU (やきにぃ~~~くぅ)!」

とな。

ちょっと違う感じがしましたが、何か皆さん、やっぱり太陽の子!明るい!!

 

原宿にも出かけましたが、団体15名を、1人も迷子にさせないことは、

結構緊張するものでした。

だって、迷子になったら、どんどん、ダンサーがいない舞台になってしまう!


そして、リハーサルの前日に、どうしても連れて行って欲しいとのことで、

行ったところが「100円ショップ」。

「ここです!」

と言うと、ダンサー総勢15名近くがバラバラに散りました!!

でも、あっちこっちから、呼ばれて、店内を走り回りました。


(もう、誰も迷子にならないでね!舞台に立つ人が、本当に!いなくなっちゃうから!)

でも、秋葉原以来、1人も迷子にならず、そして、山ほど必要な物を買って、大荷物で
ホテルに戻りました。

                                        ≪続き≫

仕事仲間とタヒチに行ったときのことを書きます。

1週間滞在しましたが、毎日のように晩御飯は、タヒチアン・ダンスを見ながらの

ものでした。

ハワイアン・ダンスの5倍は早い動きのダンス・・・凄いものです。

 

お料理は、新鮮なカツオやマグロを、いきなりココナッツミルクとレモンで混ぜて

しまったときは、びっくりしました。

わさびとお醤油があれば、もっとエンジョイできるのに・・・。

お食事はちょっとびっくりしましたが、タヒチアン・ダンスは、やはりすばらしいものでした。

 

もう、別世界のダンサー達。

絶対に真似のできないダンス。

色々な職業を持ちながら、合間をぬってダンスの練習をしているダンサー達。

 

そして、お決まりのように、1人のダンサーがお客様のところにやってきて、

お客様を選び、舞台に連れて行き、躍らせる・・・

「だめ!絶対に目を合わせたらダメだからね!」

「ご飯を食べている振りをして、下を向いていなければ!」

と言い合っていました。

 

大抵選ばれるのは、浮き浮きの外国人カップル、そして、日本人の新婚さんです。

そうわかってくると、他人事なので、本当に楽しくショーを見ることができました。

 

それにしても、タヒチアン・ダンスは、やっぱり、タヒチに生まれ育った人達の

ダンスが一番すばらしいと感じました。

生まれたときから、青い海に囲まれたあのタヒチで育ち、朝日を見て、そして、

夕日を見て、毎日を過ごす、そういう状況の彼らだからこそ踊れる、思いのあふれる

タヒチアン・ダンスだと思いました。

 

そんなタヒチアンダンサーを日本へ招待し、日本の舞台に立つ、そのお手伝いを

することになったときには、あまりにも驚いて、「ご縁」を感じてしまいました。

日本語

| | コメント(0) | トラックバック(0)

空港リムジンバスで、成田空港から東京へ向かっているとき、1人の外国人が、

私に聞きました。

「ねえ、akinaga・・・・『オイオイ』って・・・なに?」

 

そう、窓の外を見ながら、『オイオイ』とは何か聞いていたのです。

私は、考えました。

(『オイオイ』?)

 

その外国人が指差す方向を見ました。

「オイオイ???どこ????」

「ほら、あそこ!オイオイ・・・。」


「OIOI」

そうです、丸井のマークでした。

確かに、『オイオイ』だ。

「デパートのマークで、「Marui」と読みます。」

と説明しました。

 

すると、大変面倒なことになりました。

丸井がなぜ、そう呼ばれるようになったのか。

そして、その「○I○I」の「○I」は、丸井の「まるい」を表したもの。

・・・・では、「丸」がなぜ「O」なのか、「い」が「I」なのか・・・説明し尽くすなんて。

 

語学は、本当に難しいと思いました。

前に聞いたことがあって、私の心に響いたお話です。

MAPの「世界に1つだけの花」という歌詞についてでした。


「もともと特別なオンリー・ワン」

 

「あなたという存在」は確かに、世界に1つだけしかない。

そして、「特別なオンリー・ワン」である。

 

しかし、例えば、主張を1つとっても、それは、「特別なオンリー・ワンの主張」だから

するのではなく、その裏には、「的確な判断」そして、「人への思いやり」がなくてはいけない。

やりたい放題、言いたい放題、自己中心的な裏づけではないものでなくてはいけない。

 

そして、必ず1mmでも良いから、毎日進むこと、この様な努力が無ければ、それは、

別に「特別なオンリー・ワン」では無い、ということ。

だ、ぼ~~~っと毎日を過ごしていては、「怠け者のオンリー・ワン」であるということ。


ただの「身勝手で傲慢な、オンリー・ワン」であるということ。

そして、毎日、誰かが、あなたの言動に対して脅威を感じ、そして、何も言えずに我慢していて

くれるていることを、理解すること。

自分勝手に、人を傷つけて、そして、「オンリー・ワン」であるとは言ってはいけないということ。

傷つけられた人も、「オンリー・ワン」の私をバカにしたわね!と怒らないこと。

お互い様であるのだから。

 

つまり、「世界に1つだけの花」になるには、たくさんの努力必要であること。

とても大変なこと。

みんなが、実は避けてしまいたいことであることを、例え、1人になっても頑張って最後までする。

そして、正しい方向であれば、少々自分が失敗したり、傷ついたりしても、それで良い。

そして、たくさん喜んで、幸せを感じて・・・。。

一生懸命に生きることによって、咲かせる「綺麗な花」「特別なオンリー・ワン」なので

あること・・。

 

いつも誰かが、良い言葉を私にくれます。

ある日、娘が言いました。

「今日ね、学校のお友達が、中国語を教えてくれたの。」

そのお友達は、中国語に興味があって、自力で勉強をしているとか・・・。

学校の英語の勉強より、熱心に学んでいるとか・・・。

 

娘は、いきなり中国語で、1文言いました。

『ジーシエン、ブーザウラァ、ウォーガイ ガオツーラァ。』

とっても発音は良いと思いました。

本当に中国の人が喋っているのかと思いました・・・って、余り分かりませんが・・・。

でも本当の中国語に聞こえました。すごい。)

 

さ~て、なんて言ったでしょうか!」って娘。

「え~~~?!想像もつかない・・・。」

と私が、答えると、娘は誇らしげに、

 

「あのね、 『時間が無いので、そろそろ、おいとましなければなりません。』 って言ったのぉ♪」

・・・・・たった1文ですが・・・・いつか、必ず使うときが来るはずです。

覚えていると、役に立ちます・・・きっと・・・この文章を言うときが来る・・・。

 

だいぶ前に言っていましたが、最近聞いたら、やっぱりまだ覚えていました。

若い人の『脳』って凄いと思いました。


読んでいただいてありがとうございました。




このアーカイブについて

このページには、akinaga2011年7月に書いたブログ記事が含まれています。

前のアーカイブはakinaga: 2011年6月です。

次のアーカイブはakinaga: 2011年8月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。